千葉県
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千葉県(ちばけん)は、関東地方の中央東側、東京都の東に位置する県。県庁所在地は千葉市。都道府県人口は、埼玉県に次いで全国6位、面積は全国28位である。
公式キャッチフレーズは、『おもしろ半島ちば』である。
目次 |
[編集] 概要
千葉県は、関東地方の南東部に位置する県で、房総三国、すなわち律令制以来の上総国・安房国・下総国から成り立つ。但し、下総国のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡の三郡と相馬郡・葛飾郡二郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡の一部は、それぞれ、東京都と埼玉県に編入されている。1873年(明治6年)6月15日に、北部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。その後、1875年5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に移して現在の県域がほぼ完成した。
三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は丘陵地帯だが、標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところも多い。最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。
平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。人口は県北西部で特に稠密である一方、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでおり、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として石油化学コンビナートや製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。
[編集] 地理
千葉県は、日本列島の丁度中心にあたり、県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと南西諸島以外の日本列島は半径1000㎞圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は、東京湾と三方を海に囲まれた(房総)半島になっていることである。この地理的条件は、常に半島であることが重要視され、袋小路的な閉鎖性が近代に高まった陸上交通中心の見地から問題視されることも多いが、同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もあった。また、隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割や覇者の起死回生の地としての役割を担ってきた。
千葉県の北半分は、大半が関東平野で、最も高い愛宕山でも海抜408m、平均海抜は約43mで都道府県の中で一番標高が低い県となっている。ちなみに、10メートル海面が上昇すると千葉県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている[1]。 実際、数千年前までは、もっと現在より水位が高く、現在の千葉県の多くの低地が海面下で、南部の古東京湾と北部の香取海によって本州と分断されていた。
房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が数倍に増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。
[編集] 気候
[編集] 地質
- 第三紀層および白亜紀堆積層。
[編集] 地形
[編集] 平野・丘陵
- 東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。半島南部には房総丘陵、半島中央部には上総丘陵と上総台地 、半島北部には下総台地があり、これらの台地や丘陵には侵食によってできた谷底平野がみられる。一方で半島の北部から中部にかけて下総台地を囲む形で西に江戸川低地・東京湾岸低地、北に利根川下流低地、東に九十九里沖積低地が分布する。
[編集] 河川
[編集] 湖・沼
[編集] 海・海岸
[編集] 自然公園
[編集] 県史
[編集] 県名の由来
県名の起こりは、廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際に千葉郡千葉町に県庁が置かれたため、その地名が採用された。又、千葉地名がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)、律令制以来の郡名(千葉郡)に見られる。千葉地名の由来については、諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、(1)実り豊かな豊穣の地を示しているとも(2)たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも(3)土地と子孫の繁栄を願っての地名だとも説かれる。なお、日本書紀と古事記の両書には、応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯をのぞんでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が千葉地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている。
(和歌については、以下を参照)
- (和歌)
- 千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
- (訳)
- 千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにも見える
現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くにみえるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている。(和歌については、以下を参照)
- (和歌)
- 千葉の野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きて高来ぬ
- (訳)
- 千葉の児手柏の葉がまだ開きってないように、若くあどけない彼女(娘)が何とも痛々しくて、手も触れずに遠くはるばるとやってきた
[編集] 旧石器時代以前
地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。
今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈と銚子周辺の高台が小島として水面上に出ているのみだった。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80-100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていた。台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。
縄文時代がはじまる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5-10mほど高くなり、関東平野には古東京湾と古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。
房総に来た最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。旧石器時代の人々は、ナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活が営まれていた。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、長野県の中部高地や神奈川県の箱根山、伊豆の神津島などから運ばれたと考えられている。現在の学術調査から旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されている。また、印旛村では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に国立科学博物館収蔵)。
[編集] 縄文から古墳時代まで
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300ヶ所[2]を数え、関東地方には、約1000ヶ所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600ヶ所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644ヶ所[2]ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曾利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曾利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の推積状態を観察することが出来る。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。
県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会にはいると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済にかわり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した、政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模で、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。
弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラがつくられ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。
関東では、関西より、百年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。
古墳時代の房総半島は、「捄国」(古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波(徳島県)から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名をとって安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まわっていたとされる。
又、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされている。因みに平安期から近代にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみである。
県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総における大和王権の影響力が見られる。その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、十一の国造がおかれたとされる。
県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からもわかるように古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
なお、遺跡の多くは、山(標高20m-30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」と成っていたためで、この影響は、平安から鎌倉期まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにも見受けられる。
[編集] 飛鳥から平安時代まで
6世紀後半になると畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある竜角寺古墳群(古墳総数は111-124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。竜角寺古墳群は5世紀に始まったとされ、7世紀末までの三百年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は七世紀中葉近くの時期におよび、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳といわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。そして、岩屋古墳の北北西約1㎞の場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られ、現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もある。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者が大和王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれた瓦が出土している。その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。
大化の改新後、捄国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年に上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び分裂された。
地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、日本書紀には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった六十八の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と延喜式には記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていた。
平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生しはじめる。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いをふるったが、平安時代の平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこおなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。
[編集] 鎌倉から戦国時代まで
この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は、下総国千葉荘園を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と高城氏、遠藤氏は明治維新まで存続する。
しかし、千葉氏も平安期までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代するたびに荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。
1180年、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏をはじめとする総州の諸侯(安西氏、和田氏、葛西氏など)が支援がしたことによって、わずか1ヶ月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。
一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。
鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役、弘安の役に参加している。
しかし、同時期から千葉介の継承をめぐり、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、1333年に鎌倉幕府を打倒すると対立は表面化、それぞれ、足利高氏と新田義貞双方に属し、1336年に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、1365年の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。
さらに室町時代になると関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の諸氏の勢力が衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、1455年の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏(詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏((詳細は北条征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。
上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明を小弓公方として擁立し勢力の拡大を目指した。
安房国では、1440年の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになる。(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)
[編集] 安土桃山から江戸時代まで
1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原の役の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。
北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝をはじめとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代はじめに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、その後断絶することになる。
江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役をつとめた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。ちなみに下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新に徳川家達の静岡藩移封に伴い、静岡藩に編入された駿河・遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。
江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。
江戸時代を通じて県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉[3]対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。
また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧・佐倉牧・嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所や江戸名所の一つに数えられ、松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本ではじめて生産[4]された。