南田洋子

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みなみだ ようこ
南田 洋子
南田 洋子
『サンケイグラフ』1955年1月23日号
本名 加藤 洋子(かとう ようこ)
(旧姓:北田)
生年月日 (1933-03-01) 1933年3月1日
没年月日 (2009-10-21) 2009年10月21日(76歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市芝区
東京都港区三田[1]
死没地 日本の旗 日本、東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[2]
国籍 日本の旗 日本
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1953年 - 2009年
配偶者 長門裕之(1961年 - 2009年)[1]
著名な家族 津川雅彦(義弟)
朝丘雪路(義妹)
真由子(姪)
主な作品
テレビドラマ

赤い衝撃
よーいドン
わかば
映画
十代の性典
幕末太陽傳[1]
太陽の季節[1]
ハウス
音楽番組
ミュージックフェア
 
受賞
ブルーリボン賞
  • 助演女優賞
  • 1963年『競輪上人行上記』『サムライの子』
その他の賞
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南田 洋子(みなみだ ようこ、本名:加藤 洋子、旧姓:北田、1933年昭和8年)3月1日 - 2009年平成21年)10月21日[1])は、日本女優東京市芝区(現:東京都港区三田出身。文化学院文学科卒業[1]。身長155cm。

夫は長門裕之。義弟に津川雅彦、義妹に朝丘雪路、夫の姪に真由子、甥に北田陽一郎、従兄弟の娘に山田よう子

人物・略歴[編集]

1954年

東京市芝区三田に米穀商の娘として生まれる。母親の北田とみ子(旧姓:山田とみ子)は日本舞踊の師匠をしていた[3]。終戦後、茨城県土浦市に移り、1949年(昭和24年)、茨城県土浦第一高等女学校(現:つくば国際大学高等学校)を卒業後[3]、16歳で単身上京し[4]、(1952年(昭和27年)文化学院卒業[3])。水谷八重子に弟子入りする[4]1951年(昭和26年)大映5期ニューフェイスとして入社[4]。同期に若尾文子がいた[4]。翌1952年(昭和27年)の『美女と盗賊』で映画デビュー[5]

1953年、若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒット[4]。好評によってシリーズ化され、「性典スター」と呼ばれた[4]

1955年大映から日活に移籍。日活の常務の進言により、芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化されて長門裕之とともに主演し、こちらも大ヒット[1]。名実ともに日活の看板スターとなった。

1957年の『幕末太陽傳』では左幸子と共演して話題となった。

1961年、長門と結婚[5]

1963年(昭和38年)、『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。同年、『おかしな奴』でホワイト・ブロンズ賞女優賞受賞[6]

1964年(昭和39年)、長門とともに「人間プロダクション」を設立。太田博之島かおりなどを育てると同時にドラマ制作にも乗り出す。この時期よりテレビドラマへの出演も多くなり、NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会女性演技賞」を受賞[4]

1970年、NHK連続テレビ小説「虹」でヒロインを務める。数少ない放送開始時点で既婚者だった女優である。

また、女優としての活動以外にも長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を1965年(昭和40年)から約16年間、京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを20年以上、それぞれ担当。1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの約1年間、病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演する。その他、多くのバラエティ番組やCM、ドラマなどへ出演しており、おしどり夫婦のイメージのもとに最晩年まで多彩な活動をしていた。

十数年ごとの自宅建て替えの際は南田が自ら図面を引いていた。建て替えのたびに、建設費用の高額さと建て替えまでの期間の短さがワイドショーで取り上げられている。長門は「まだ住めるのに」とインタビューで不満を漏らすことがあったが、「洋子の趣味だから仕方ない」と許容する度量を見せている。

1998年(平成10年)には、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判となる。2004年(平成16年)頃から認知症の症状が表れ始め、ドラマや映画の台詞が覚えられなくなるほど悪化。2006年(平成18年)に芸能活動をひっそりと引退。専門医によりアルツハイマー病との診断が下された。その後、長門が雑誌などで南田が引退したことをそれとなく語っていたが、やがて女性週刊誌などが南田の病状について報道し出す。2008年(平成20年)、長門が『徹子の部屋』へゲスト出演した際に、夫婦共々深い親交がある黒柳徹子へ南田が認知症で要介護状態であること打ち明け、南田の病状を初めて公表。同年には『報道発 ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(2008年11月3日)で長門との闘病の模様が放送され、高視聴率を記録するなど、大きな反響を呼んだ[1]

2009年(平成21年)4月1日、意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。長門は記者会見で「混濁した中でも、僕を一瞬認めて笑った気がします」と涙を浮かべながらも気丈に、南田の状況についてコメントした。翌5月には長門著『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)が出版された。同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、取材VTRの中で、車椅子姿の南田が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕もあった。その取材映像が南田洋子の生涯最後の公の映像となった[7]

2009年(平成21年)10月17日に自宅で倒れ、クモ膜下出血との診断を受けて病院に再入院。危篤状況が続いていたが、意識が戻らず、同10月21日に東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した[2][8]。76歳だった[8]

夫の長門は明治座で舞台公演の仕事があった為に、南田の最期を看取ることは出来ず、10月21日の夜に「さよならも言わずに…、この世を去りました…」と悲しみの記者会見を執り行った[9]。なお南田の葬儀は、長門の公演が終了した10月29日に通夜、翌10月30日に告別式港区増上寺で営まれ、長門が喪主を務めた。遺体は品川区桐ヶ谷斎場荼毘に付された。法名は「華徳院釈尼洋愛(けとくいんしゃくにようあい)」[10]萩本欽一、自身の作品に連続起用していた大林宣彦監督、萬田久子が弔辞を読んだ。

テレビドラマの遺作は2006年日本テレビ放送の『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』、映画作品の遺作は2007年8月18日公開『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』。南田の死から約1年半が経った2011年平成23年)5月21日に、夫の長門も脳出血でこの世を去った。

逸話[編集]

出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

NHK
日本テレビ
TBS
フジテレビ
テレビ朝日(旧NET)
テレビ東京
毎日放送
ABCテレビ
関西テレビ
読売テレビ
東海テレビ
中部日本放送
  • 東芝日曜劇場「父と子たち 再婚」(1965年)
RKB毎日放送
WOWOW
  • 祖国(2005年) - 守谷セキ 役

チャリティ[編集]

バラエティ[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.42.
  2. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  3. ^ a b c 南田 洋子(ミナミダ ヨウコ)とは”. コトバンク. 2016年10月21日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 「人生、生きちょるだけで丸儲け」の名セリフを残した南田洋子”. シネマズ. 松竹 (2016年3月6日). 2016年10月19日閲覧。
  5. ^ a b “南田洋子さんデビュー作は「美女と盗賊」”. 日刊スポーツ. (2009年10月21日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20091021-557932.html 2016年10月23日閲覧。 
  6. ^ 江國滋『人間山脈』(芸術生活社)P.72
  7. ^ 南田洋子 - オリコンTV出演情報
  8. ^ a b “南田洋子さん亡くなる 一生分のキスで送られて…”. スポニチ Sponichi Annex. (2009年10月21日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/10/21/kiji/K20091021Z00000640.html 2016年10月23日閲覧。 
  9. ^ 南田洋子さん死去 夫・長門裕之、最後の思い出は「指をきつく握ってくれた“痛み”」”. ORICON STYLE (2009年10月21日). 2016年10月23日閲覧。
  10. ^ 南田洋子さん通夜 それぞれの思い”. リアルライブ (2009年10月30日). 2021年12月17日閲覧。
  11. ^ 南田洋子 - 略歴・フィルモグラフィー”. キネノート. キネマ旬報社. 2020年3月29日閲覧。
  12. ^ お嬢さん先生”. 日本映画製作者連盟公式サイト. 映連データベース. 日本映画製作者連盟. 2020年3月29日閲覧。
  13. ^ 南田洋子1959年”. 日活公式サイト. 日活. 2020年3月29日閲覧。
  14. ^ 南田洋子1960年”. 日活公式サイト. 日活. 2020年3月29日閲覧。
  15. ^ 地図のない町”. 国立映画アーカイブ公式サイト. 所蔵映画フィルム検索システム. 国立映画アーカイブ. 2020年3月29日閲覧。
  16. ^ a b 南田洋子1961年”. 日活公式サイト. 日活. 2020年3月29日閲覧。
  17. ^ 映画 この愛の物語 (1987)について”. allcinema. スティングレー. 2020年3月29日閲覧。
  18. ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、247 - 250頁。NDLJP:12025175/128 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]