User:RJCraig/Kokugogaku

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History of research on the Japanese language[edit]

Phonology[edit]

Vowels and consonants[edit]

母音は、Nara period以前にはeight vowelであったとする説が有力である。このことは、Shinkichi Hashimotoが再発見した上代特殊仮名遣いの実態から推測される。記紀や『万葉集』などのMan'yōganaの表記を調べると、「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名(甲類・乙類)が存在する(「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これが音韻の区別を表すものであることを指摘した。8母音の区別は平安時代にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現の仕方が、ウラル語族アルタイ語族母音調和の法則に類似しているとされる。

は行」の子音は、Nara period(もしくはそれ以前)にはpであったとみられる。すなわち、「はな(花)」はpana(パナ)のように発音された可能性がある。pは後に両唇音ɸに変化した。すなわち、「はな」はɸana(ファナ)となった。戦国時代に、当時の日本語の発音をそのままローマ字化したキリシタン資料が多く残っているが、これらを見ると、「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。江戸時代になると、「は行」の子音は「」を除いてɸからhへと代わった(厳密には「」はçi)。

や行」の「え」(je)の音が古代に存在したことは、あ行の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである。古い手習歌の「天地の歌」にも「あ行」「や行」の区別がある。この区別は10世紀頃にはなくなったとみられ、970年の『口遊』に残る「大為爾の歌」では両者の区別はない。この頃には「あ行」「や行」の「え」の発音はともにjeになっていた(次節参照)。

「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)のŋであった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音ɡ摩擦音ɣに取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カカ゜ミ(鏡)」のように書くこともある。

」「」の四つ仮名は、キリシタン資料ではそれぞれ「ji, gi」「zu, zzu」など異なるローマ字で表されており、古くは別々の音価をもっていたことが分かる。「・ぜ」は「xe, je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」であったことも分かっている。江戸時代には、四つ仮名の区別が失われ(方言としては今に残る)、「せ・ぜ」は関東音であったsezeが標準音となった。

ハ行転呼[edit]

平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで「カファ」「カフィ」「カフ」「カフェ」「カフォ」のようであったものが、「カワ」「カウィ」「カウ」「カウェ」「カウォ」のようになった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「haua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。

平安時代末頃には、(1)「い」と「」(および語中・語尾の「ひ」)、(2)「え」と「」(および語中・語尾の「へ」)、(3)「お」と「を」(および語中・語尾の「ほ」)が同一に帰した。藤原定家の『下官集』(13世紀)では、「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。

当時の発音は、(1)はi、(2)はjeすなわち「イェ」、(3)はɰoすなわち「ウォ」のようであった。(3)が現在のようにoになったのは江戸時代で、18世紀の『音曲玉淵集』では「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。(2)が現在のようにeになったのは、近代に差しかかるころであったものと考えられる。

Onbin Sound Changes[edit]

平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。

中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。

連音上の現象[edit]

鎌倉時代室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、例えば銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。

また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」の音が合して長母音ɔːになり、「応対」の「応」など「オウ」の音がになった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。前者は、口をやや開ける開音と称され、後者は、口をすぼめる合音と称された。この「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の (オー)になった。一部の方言には今も開合の区別が残っている。

Foreign influences[edit]

漢字音の影響によって、古来の日本になかった合拗音「クヮ・グヮ」が使われるようになった。「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」のごとくである。これらは、一部方言を除き、江戸時代には直音「カ・ガ」に統合された。

近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる。これらは、子音・母音のそれぞれをとってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまでなかった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。

Grammar[edit]

Changes in conjugation[edit]

動詞の活用種類は、平安時代には四段活用・上一段活用・上二段活用・下一段活用・下二段活用・カ行変格活用・サ行変格活用・ナ行変格活用・ラ行変格活用の9種類があった。これが、時代とともに統合され、現代では、五段活用(実質的には四段活用と同じ)・上一段活用・下一段活用・カ行変格活用・サ行変格活用の5種類となった。すなわち、「起き(ず)」「起く」「起くる(時)」のように「い段」「う段」の2段に活用する動詞や、「明け(ず)」「明く」「明くる(時)」のように「え段」「う段」の2段に活用する動詞が、「起き(ず)」「起きる」「起きる(時)」または「明け(ず)」「明ける」「明ける(時)」のように1段にのみに活用するようになった(二段活用動詞の一段化)。また、ナ行・ラ行の変格活用が四段型に統合された。これらの変化は古代にすでに萌芽が見られるが、変化がほぼ完了したのは近世に入ってからである。

形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止形・連体形の区別が失われる(後述)とともに消滅し、現在では形容詞の活用種類は1つになった。

Kakari-musubi and its demise[edit]

かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。

係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。

ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。

今日の日本語の文には規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。

Merger of terminal and attributive forms[edit]

活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形連体形とが異なる形態をとっていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(時)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多くみられるようになった。たとえば、『紫式部日記』には、

かたみに知らぬ人も、語らはるる

などの言い方があるが、本来ならば「語らはる。」の形で終止すべきものである。

このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞およびそれと同様の活用をする助動詞では、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。

ただし、形容動詞は東西で事情が異なった。京都では、終止形活用語尾「なり」は連体形活用語尾と同じ「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「気の毒なり」は、「はて気の毒な。」のような形で言い終わるようになった。ところが、東国では中世には終止形に「だ」を用い(「迷惑だぞ」「臆病だぞ」)、連体形に「な」を用いていた(「まっすぐな棒」「頑丈な馬」)。今日の共通語にも、東国語の系統を引いてこの区別があり、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の1つとなっている。

文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。

Potential verbs[edit]

江戸時代には、五段活用の動詞から作られる可能動詞が発達した。たとえば、「読む」から「読める」(=読むことができる)が、「買う」から「買える」(=買うことができる)が作られた。この語法は、古来の日本語で「(ものを)取る」に対して「(ものが自然に)取れる」、「(ひもを)解く」に対して「(ひもが自然に)解ける」のように、自然生起(自発)を表す動詞があることから類推したものと考えられる。

近代以降、とりわけ大正時代以降には、可能動詞の語法を一段にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居れる」という類であり、第二次世界大戦後に特に顕著になっている。

Passive expressions[edit]

受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった(小松英雄『日本語はなぜ変化するか』笠間書院 1999)。したがって、物が主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に

すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている)

とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきである。状態を表さない受け身、たとえば、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語が紫式部によって書かれた」のような例(人などから働き掛けを受ける事物を主語とした受け身)は、古くは存在しなかったとみられる。

「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、おそらくは欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られるが、詳しいことは分かっていない。明治時代には、

民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。(伊藤左千夫『野菊の墓』1906)

のような、欧文風の受け身の例が用いられている。

Vocabulary/Lexicon[edit]

漢語の勢力拡大[edit]

漢語(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのは、かなり古く、文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、もともとは漢語からの借用語であった可能性がある。日本で本格的に漢字・漢語が使用され始めた時期は、『古事記応神天皇条の、王仁が『論語』『千字文』をもたらしたという記述に従えば、4~5世紀の頃である。

当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数の日本人は和語(大和言葉)を使うという二重言語状態であったと推測される。しかし、中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語および混種語(漢語と和語の混交)は異なり語数で全体の31%を占めるに至っている。ただし、述べ語数では14%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。幕末の英和辞典『和英語林集成』の見出し語でも、なお漢語は25%ほどに止まっている。

漢語が再び勢力を伸張したのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、芸者も漢語を好み、「秋霖ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(秋の長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢がくすぶっている)などと言っていたという。二葉亭四迷の『浮雲』の中では、お勢という女学生が漢語を使って得意になっている様子が描かれている。

#語種」の節で述べたごとく、今日まで漢語の勢力は拡大し、雑誌調査では述べ語数が和語を上回って全体の約半数に及ぶまでになっている。

サ変動詞・形容動詞の増大[edit]

漢語は、基本的には名詞として日本語に取り入れられた。それ以外に、たとえば、漢語「祈念」の下に「す」をつけて「祈念す」とすれば動詞(サ変動詞)として用いることができた。また、漢語「神妙」の下に「なり」をつけて「神妙なり」とすれば形容動詞として用いることができた。したがって、漢語の定着とともに日本語の中でサ変動詞・形容動詞の語彙が増大することになった。

一般に、大和言葉は意味の範囲が広い。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いることにより、これらの「とる」を「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いれば、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。漢語の定着は、日本語の表現に厳密さを与えたといえる。

loadwordの勢力拡大[edit]

漢語を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。仏教関係の梵語(「娑婆」「檀那」「曼荼羅」など)も用いられたが、これはいったん漢語に取り入れられた後に入ってきた語である。

西洋語が輸入されはじめたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。

また、Edo Period には、"Dutch studies (蘭学, Rangaku)などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。

幕末からMeiji Period以後には、Englishを中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日ではふつう使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885)には、書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。

第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。

Orthography[edit]

Origin of the Kana[edit]

元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来のKanjiを用いた。いわゆる神代文字は後世の偽作とされている。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされるFukuoka市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、Yamato政権の勢力伸長とともに漢字使用も拡大されたことが推測される。

漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように、日本語の一音一音を、漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。

9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生を見るに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。

僧侶らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て・に・を・は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。

平仮名も、片仮名も、発生当初から、一つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は ɸa)にあたる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、これらの仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも、料理屋の名などに使われることがある。

現在では、語種ごとに文字の系統を使い分けるのが普通である。基本的には、漢語には漢字を、和語には平仮名または漢字を、外来語(通常漢語を含めない)には片仮名を用いる。ただし、これは絶対的ではなく、花の名を「さくら」「サクラ」「桜」のいずれで書くこともある。このほかに、ローマ字(ラテン文字)アラビア数字などを適宜合わせ用いる。表記体系がこのように多様であることは、日本語の特色の1つということができる。

仮名遣い問題の発生[edit]

平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。ところが、その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、平安時代末には、「はな(花)」の「は」は「ha」と発音したが(より正確には ɸa)、「かは(川)」の「は」は「wa」と発音した。ところが、「wa」と読む字には別に「わ」もあるため、「kawa」を表記するときに「かわ」とすべきか、「かは」とすべきか分からなくなった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。

時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる絶対的な仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。

漢字・仮名遣いの整理[edit]

漢字の字数および仮名遣いについては、近代以降整理がたびたび検討された。たとえば、小学校令施行規則では、「にんぎゃう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用された。しかし、これは評判が悪く、すぐに元に戻った。

第二次世界大戦後の1946年昭和21年)に「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いは廃止された。1981年昭和56年)には、より制限色の薄い「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。なお、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示された。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論の絶えることがない(「国語国字問題」参照)。

文体史[edit]

和漢混淆文の誕生[edit]

平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は中国語文(漢文)であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。

漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには、「王等臣等」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。

漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。

一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。

両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。

強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙埤堄(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。(『平家物語』聖主臨幸)

ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。

今日、我々が最も普通に用いる文章は和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。

Written vs. spoken varieties[edit]

話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。

日本語の場合は、平安時代には、書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。

明治時代の書き言葉は、依然として、古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。

ワガ国ノ人ハ、手ヲ用フル工業ニ、タクミナレバ、ソノ製作品ノ精巧ナルコト、他ニ、クラブベキ国少シ。(『国定読本』第1期 1904)

普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年明治38年)16条を告示した。

一方、明治20年代頃から、文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。このような試みが広まる中で、小説・新聞などが話し言葉に近い言葉で書かれるようになった。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文なども口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。

Dialectology[edit]

日本語には古くから方言が存在した。『万葉集』の「東歌」「防人歌」には、当時の東国方言が記録されている。

820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には、国内文献における「方言」の最古例である「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見える。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。

平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。

安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年1604年刊)や、筑前備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年1608年刊)はその右代表である。

この時期には琉球方言の資料も登場する。最古に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球方言の語彙を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球方言の語彙を断片的に記録しているが、琉球方言史の資料として見た場合、沖縄奄美地方に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。

上代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には日本語の標準語とみなされるようになった。

近代に入ると、「富国強兵」政策が推進される中で、他のヨーロッパ諸国と同じように方言を廃止し、国語を統一しようという運動が高まった。学校教育では東京の山の手の言葉に基づいた言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。方言は悪いもの、矯正すべきものとされるようになった。学校教育では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせることもあった。戦後に高度成長を迎えた頃でも、方言の地位はなお極端に低かった。「方言を大切にしよう」という意見が多くなったのは、比較的最近のことである。

方言研究は、これまで、日本語研究の一分野とみなされていた。ところが、近年では、独自性の強い方言を日本語とは敢えて切り離した研究もある(「ケセン語」参照)。

とはいえ、方言が、日本語を研究する上で貴重な資料であることはいうまでもない。とりわけ、歴史的問題の解決に資する部分が大きい。柳田国男が『蝸牛考』などで指摘するように、古い中央語が地方に残ることもしばしばある(周圏分布)。方言と古文献を調べることによって、古い時代の日本語を再現することも可能である(「比較言語学」および「内的再構」を参照)。

Japanese language research[edit]

Phonology[edit]

日本語の音韻をまとめたものは、「五十音」に代表される悉曇学に基づくものと、「いろは歌」に代表される手習い歌の大きく2つに分類される。

悉曇学とはサンスクリットにおける文字の研究から発展した、音韻に関する学問であり、音韻を分析的にまとめているのに対し、手習い歌は、仮名文字を漏らさず並び替えた一種のパングラムであり、体系的な理解の助けにはならない。

現在、最も一般的に用いられているものは、五十音であるが、この成立は意外にも古く、平安時代の僧である明覚1093年に『反音作法』という著作で早期の五十音図を唱えたことまで遡り、これは中国音韻学における反切と呼ばれる方法も参考にされている。当初、その配列についてはかなり自由であり、現在のような配列が慣習になったのは室町時代以後のことである。

一方、手習い歌の代表であるいろは歌の成立は、1079年のことである。いろは歌が普及するまでは、同じく手習い歌である「天地の歌」が一般的であった。前述の通り、手習い歌は配列が音韻学的に全く無意味で、体系的な理解の助けにはならないが、その歌唱の面白さから、近世から近代にかけて、日本人の識字率を高めたといわれている。学問的で無機質な五十音は、庶民にはあまり普及しなかった。

五十音が再び脚光を浴びたのは、言文一致がほぼ完了した、昭和以降のことである。配列が合理的な五十音の方が文語でかかれた手習い歌より、かえって分かりやすかったからである。濁音拗音促音外来語の表記が固定されてきたのもこの時期である。戦中、戦後にかけて、表記が現代仮名遣いに改まると、学校教育でも仮名を五十音で教えるようになった。

現在でも、辞書などの配列をみると五十音順が一般的であるが、モールス符号など一部でいろは順も用いられている。

Grammatical research[edit]

文法研究も、近代以前からすでに盛んであった。江戸時代を概観しても、本居宣長富士谷成章・義門らが、水準の高い研究を残している。

近代以降には、西洋言語学の考え方を取り入れた研究が行われるようになる。大槻文彦は、伝統的な研究と西洋言語学を折衷した文法書『広日本文典』をまとめた。

現在、小中高校で教えられる、いわゆる学校文法は、橋本進吉の考え方に拠るところが大きい。橋本のほか、山田孝雄(よしお)・松下大三郎・時枝誠記らは、斬新な発想に基づいて文法体系を構築し、今日の研究に大きな影響を与えている。

詳細は「現代日本語文法」を参照。

海外の日本語[edit]

近代以降、台湾朝鮮半島などを併合した日本は、皇国化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国にも日本人が数多く移住した結果、これらの地域では日本語が有力な言語になった。そのため、日本語を解さない主に漢民族満州族向けに簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。台湾や朝鮮半島などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。

また、明治から戦前にかけて、日本人がアメリカメキシコブラジルペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域では日本語が話されたが、世代が下るにしたがって、日本語を解さない人が増えている。

近年では、海外から日本へ渡航する人が増え、かつまた、日本企業で働く外国人労働者も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国によっては、日本語を第2外国語など選択教科の1つとしている国もあり、海外で日本語が学ばれる機会は増えつつある(世界の日本語教育、および、本名信行ほか『アジアにおける日本語教育』三修社 2000)。