干拓

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干拓の手順
干拓前の状態
水門の建設
排水(干潮のためa.の方向に排水される)
水門の閉鎖
干拓後

干拓(かんたく)とは遠浅の干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場のを抜き取ったり干上がらせるなどして陸地にすること。主に農地として開拓や干拓防災[1][2]する時に用いられる。干拓された土地を干拓地: polder)と呼ぶ。

水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは異なる。

方法として、まず、干拓堤防(潮受け堤防、潮受堤防)で水域を仕切り、堤防の随所に水門を設ける。その上で動力によって強制的に仕切内の水を排水し干上がらせる。または海の場合、潮の干満を利用する方法も取られる。干潮時に水門を開き海水を排し、満潮時には水門を閉じて干上がらせる。

こうしてできた土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、農地化する際には、塩分とともに水を排水する設備を作る必要がある。また地盤も軟弱であるため、宅地としては適していない。

干拓による環境破壊[編集]

干拓される対象となる水域の大抵は既に生態系が形成されている個所である。そこを陸地化させてしまうことは、元々あった生態系を破壊してしまうことであり、しばしば自然破壊の1つとして問題視されるのである。特に、諫早湾干拓事業のような大規模事業の場合、その影響が干拓地だけでなく、周辺の水域にも及ぶことがある(同事業の場合、1997年4月に湾の西半分を潮受け堤防で閉め切ったことが、有明海全体に甚大な漁業被害をもたらす原因となったと言われたほどである)。

オランダ[編集]

オランダの歴史は、俗に「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われるように干拓地(ポルダー)と切り離せない。

オランダでは海岸沿いに広がる湿地泥炭地や干潟を埋め立てて土地を広げてきた歴史がある。オランダ最古の堤防はローマ帝国時代に遡り、初期の干拓は11世紀から13世紀の間に始まった。海や湖を干上げる近代的な干拓の始まりは、1612年のベームスター干拓地であった。以来オランダでは堤防に囲まれ風車・排水路・水門で雨水や地下水を排水する干拓地が広がった。

また水管理委員会(オランダ語: waterschap英語: water board)の長として、干拓地の周りの堤防を維持管理する「dijkgraaf」(英語では「dike-warden」)の役職が置かれた。この職は土地の存続や住民の生死に関わるものだったため、堤防維持のために人々を徴発する強力な権限があった。もっとも堤防の保全という作業はあらゆる階層の干拓地住民の協力が不可欠なため、オランダには階層を超えた協力や話し合いを重視する気風が生まれた。労使協調ワークシェアリングなどを特徴とするオランダ独特の政治・経済システムも「ポルダーモデル」の名で呼ばれる。

オランダの干拓手法はヨーロッパ、さらに世界各地にも影響を与えた。日本の干拓も、明治以降はオランダの強い影響を受けている。

日本の干拓[編集]

有明海(筑紫平野)の石積み干拓堤防

ここでは日本で最も規模が大きい有明海の干拓を例にとる。

有明海沿岸での干拓は室町時代頃に始まったと考えられている。泥質干潟である有明海湾奥部では泥の堆積により年間平均10m程度(標高にして2mm程度)の自然陸化が継続するが、ひとたび陸化して干上がった地域には泥が堆積しないため低地が広がり洪水や高潮に弱く、泥質土に顕著な圧密沈下により逆に沈下してゆくこと、また干潟の方も台風の波浪高潮などによって堆積した泥が簡単に流されていってしまうという特徴があった。そのため、陸化を促進する目的とともに陸化した地域を水害から守る目的などで干拓が行われるようになった[3][4]

具体的には、沿岸の干潟にの丸太を間隔をあけて打ち込んでその間になどを敷き詰めてうろこ状に干潟を囲い込んで海水の出入り口を狭くし、泥の堆積を数年間促進させる。堆積が進んだら、干潮時を狙って土居(堤防)を築き閉め切る。この方式を「柴搦」といい、干拓堤防は松の丸太を基礎としたものが多かったことから「松土居」と呼ばれた。江戸時代の前までは規模の小さい「籠」と呼ばれる干拓が多かったが、江戸時代に入ると本格的な土居を築くような組織的な干拓が主流となり、主導の事業や「村受け」と呼ばれる農一体で取り組む事業が行われたが、干拓できる地域が限られ大きな労力を必要とするようになってきたため次第に下火となった。江戸時代以降の干拓地は「搦」「開」と呼ばれ、現在の地名にも残っている[5][3][4]

明治に入ると資金力のある有力者が出資する組合方式の干拓が始まり、再び活発となった。しかし、拡大が進むにつれて水深の深い干潟を干拓せざるを得なくなり、資金のある村営、県営、そして国営と規模を拡大していった。このころには、岩を基礎とした堤防を作り広範囲の干潟を干上がらせ自然陸化を待たない、オランダのような方式が主流となった。そして、堤防も堅牢化・コンクリート化が進み大規模化していった。1957年(昭和32年)に始まった八郎潟の干拓事業はその規模(17200ha)において国内最大であった。1968年(昭和43年)に有明海の干拓がほぼすべて完工し[3]、その後行われたのは笠岡湾干拓諫早湾干拓のみである。

干拓地の例[編集]

オランダの干拓地の例
Flevopolder、970 km2の干拓(オランダフレヴォラント州
日本の干拓地の例
八郎潟(右)、172.03 km2の干拓(秋田県)
木曽岬干拓地(三重県)
大中湖干拓地(滋賀県)
干拓工事中の諫早湾(長崎県)
有明海沿岸(佐賀県旧川副町付近)の空中写真
同心円状に干拓の痕跡が残る。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1974年撮影)

オランダ[編集]

韓国[編集]

日本[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Q2.諫早湾干拓事業の防災効果とは?”. www.pref.nagasaki.jp. 2023年11月18日閲覧。
  2. ^ 萱野智篤(2001), 水屋とサイクロンシェルター : 防災文化の交流に向けて, 北星学園大学経済学部北星論集, Vol.39, pp.39-52.
  3. ^ a b c 有明海再生機構 有明海講座 干拓から有明海沿岸堤防まで -有明粘土とのつき合い方
  4. ^ a b 農業農村整備情報総合センター 水土の礎 肥前佐賀の水土の知:創造された大地 特異な水土1
  5. ^ 大搦堤防
  6. ^ ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム”. adeac.jp. 2023年1月9日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]