霞目駐屯地

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霞目駐屯地
位置
地図
所在地 宮城県仙台市若林区霞目1-1-1
概要
駐屯地司令 東北方面航空隊長

開設年 1957年
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霞目飛行場
Kasuminome Air Field
霞目飛行場の空中写真(2019年)
IATA: なし - ICAO: RJSU
概要
国・地域 日本の旗 日本
所在地 宮城県仙台市若林区霞目
種類 軍用
所有者 防衛省
運営者 陸上自衛隊
運用時間 8:00 - 17:00 (JST)
開設 1937年昭和12年)
所在部隊 陸上自衛隊東北方面航空隊
宮城県警察航空隊
標高 7 m
座標 北緯38度14分08秒 東経140度55分23秒 / 北緯38.23556度 東経140.92306度 / 38.23556; 140.92306
地図
空港の位置
空港の位置
RJSU
空港の位置
滑走路
方向 長さ×幅 (m) 表面
14/32 708×30 アスファルト
09/27 400×15 芝生
リスト
空港の一覧
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霞目駐屯地の位置
霞目駐屯地の位置
RJSU
霞目駐屯地の位置
霞目駐屯地付近の空中写真。(1984年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

霞目駐屯地(かすみのめちゅうとんち、JGSDF Camp Kasuminome)は、宮城県仙台市若林区霞目1-1-1に所在する、東北方面航空隊等が駐屯する陸上自衛隊駐屯地である。

概要[編集]

東北方面航空隊長が霞目駐屯地司令を兼ねる。霞目駐屯地は、昭和の初めに建設された仙台飛行場の敷地を引き継いだものである。駐屯地内に「霞目飛行場」がある。

仙台飛行場[編集]

仙台飛行場は郵便物の空輸を目的に逓信省所管の飛行場として設置された。着工は1932年(昭和7年)で、1933年(昭和8年)に落成式が行われた[1]。民間機や軍用機がここに発着するようになり、その後も段階的に拡張されて整備が続いた。1937年(昭和12年)になると、東京と札幌の間を、仙台飛行場と青森を経由して結ぶ定期路線が開設された。東京札幌間の所要時間は6時間だった。運航機材はフォッカーの双発機で、郵便物と定員7名の旅客を載せて1日1便が運行され、夏季にはさらに臨時便が飛んだ[2]。また、仙台に本社を置く新聞社河北新報はここに、宣伝飛行用および写真撮影用の専用機を配備していた[3]

1938年(昭和13年)に逓信省航空局仙台乗員養成所がここに開設され、後に仙台地方航空機乗員養成所が併せて置かれた[4]。これらの機関は非常時における臨時の飛行操縦士の養成を目的としたものであり、訓練生の衣食住は全て国費でまかなわれた。訓練生には軍隊と変わらないような課題が与えられ、修了者は6箇月間、軍隊に入隊してさらなる修練を積んだ。この期間が終わると、陸軍に入ったものは伍長として、海軍に入ったものは一等飛行兵曹として除隊し、民間の航空会社に入社するか、あるいは高等航空機乗員養成所へと進んだ[2]

霞目には第4代横綱谷風」の墓があったが、飛行場の拡張時に工事区域に含まれたため1942年(昭和17年)に現在地に移転した[5]。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に仙台飛行場は陸軍の管轄下に移り、仙台陸軍飛行学校仙台教育隊がここに置かれた。前年に入所していた第14期訓練生は陸軍兵長に転換されて、それぞれ戦闘機爆撃機偵察機の乗員として訓練され、やがては特攻機の訓練も行われるようになった。仙台飛行場で飛行訓練を受けた操縦士は1000名を超えたが、このうち290名が戦死した[2]

終戦後の1945年10月、仙台飛行場はアメリカ軍に接収され[6]、レニア・フィールド[7]、あるいはレイニア・エアフィールド(Lanier Airfield)[8]と呼称された。アメリカ軍の特科大隊の一部がここに駐留し、残存していた練習機攻撃機合わせて77機を処分した。1947年(昭和22年)、進駐軍は霞目飛行場の拡張工事に使う土を得るため、隣接地にある遠見塚古墳の一部を破壊した[9]

1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約が調印されると、仙台市は仙台飛行場が戦前のような民間機が発着する飛行場となる事を期待したが、1952年(昭和27年)に締結された日米安全保障条約によってレニア・フィールドは無期限にアメリカ軍が使用するものと決められた。その後、仙台市は仙台飛行場をアメリカ軍と民間の供用飛行場とする方策を模索したが、これも実現はしなかった。1955年(昭和30年)に仙台飛行場はアメリカ軍と自衛隊の供用地となり、ここに陸上自衛隊第6管区航空隊が置かれ、多賀城駐屯地霞目分屯地となった。その後、1957年(昭和32年)10月にアメリカ軍がここを撤収し、同年12月に陸上自衛隊の霞目駐屯地となった[2][6]

2011年(平成23年)3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生。霞目飛行場がある場所は海岸から約5km内陸に位置していたものの、飛行場の南東に隣接する水田まで津波が到達した。しかし、飛行場は水田と比べて1mほど高い位置にあり、また盛り土構造の仙台東部道路が防波堤の役割を果たしたこともあり、浸水は免れた。日本全国から陸上自衛隊や様々な機関のヘリコプターが飛来し、活動拠点や輸送・補給拠点などとして機能した。最大時の2011年4月7日には64機が使用した。同地震に伴う津波で仙台市消防ヘリポートが使用不能になったため、同ヘリポートを基地とする宮城県防災航空隊および仙台市消防航空隊は霞目飛行場に移転。また、災害医療活動に従事する全国のDMATドクターヘリが、霞目飛行場を広域拠点の1つとして使用した。

沿革[編集]

陸上自衛隊霞目分屯地

  • 1955年(昭和30年):陸上自衛隊第6管区航空隊が置かれ、多賀城駐屯地の霞目分屯地となる。

陸上自衛隊霞目駐屯地

  1. 東北方面後方支援隊隷下に編入[6]
  2. 第105輸送業務隊を新編。
  • 2007年(平成19年)5月:「霞目駐屯地」創立50周年記念行事を挙行[6]
  • 2018年(平成30年)3月26日:東北方面輸送隊第105輸送業務隊を陸上自衛隊中央輸送隊第2方面分遣隊に改編。

駐屯部隊[編集]

東北方面隊隷下部隊[編集]

防衛大臣直轄部隊[編集]

霞目飛行場[編集]

陸上自衛隊東北方面隊直轄部隊の航空隊が使用しているほか、滑走路外の飛行場南東端には宮城県警察航空隊のヘリポートがあり、ここをヘリコプターの離着陸の基地としている。

滑走路以外の広大な芝生では、休日にはグライダーの滑空場として市民にも利用されている。

資料展示施設[編集]

駐屯地内に「霞目駐屯地防衛館」があり、駐屯地の歴史、自衛隊の活動、旧陸軍関係の資料を展示している。

その他[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 陸上自衛隊霞目駐屯地のウェブサイトでは、1937年(昭和12年)に仙台飛行場として運用を開始したとされる。
  2. ^ a b c d 『仙台市史』特別編9(地域史)341-342頁。
  3. ^ 『仙台市史』通史編7(近代2)258頁。
  4. ^ 陸上自衛隊霞目駐屯地のウェブサイトでは、1937年(昭和12年)に逓信省臨時航空機乗員養成所が開設されたとされる。
  5. ^ 墓碑より。
  6. ^ a b c d e f g 霞目飛行場の沿革(陸上自衛隊霞目駐屯地)
  7. ^ 「『仙台市史』 通史編8 現代1」137頁
  8. ^ NJ 54-6 verso Yamagata and Vicinity; Sendai and Vicinity; Sakata and Vicinity」(テキサス大学オースティン校 "Japan AMS Topographic Maps")
  9. ^ 『仙台市史』通史編8(現代1)530頁。
  10. ^ 自衛隊法施行令の一部を改正する政令(昭和32年11月30日政令第327号)
  11. ^ 昭和59年防衛施設庁告示第12号

参考文献[編集]

  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編7(近代2) 仙台市、2009年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編8(現代1) 仙台市、2011年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』特別編9(地域史) 仙台市、2014年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]